思い通りにならないことがある。
手に入らないものがある。
「お車の用意、できております」
「今日はいい」
「し、しかし……っ――」
「歩きで帰るって言ってるんだ」
「は、はい……」
仕事が思ったよりも早くに片付いた今夜。
誠一が、夜風に当りながら自分の足で帰宅することを選んだ理由と言えば、とても配車係に告げられるものではなかった。
練に、帰宅時間を告げてある。
その時間には、夕飯の用意を整えておけとの言葉と共に。
きっと今頃練は、誠一の帰宅時刻を見計らって鍋でもかき混ぜていることだろう。
だから、まだ早いのだ。
別に、早く帰ったっていいのだけれど――それは何故か躊躇われて、誠一は低い声で部下の申し出を一蹴して乗車を拒む。
別に、躊躇うことなど何もないのに。
怯えた様子で頭を下げる男を一瞥し、誠一は夜の街を歩き出す。
これで帰りしな事故にでも遭ったなら、あの男の首は、飛んでいるかもしれないけれど。
唯一思い通りにならない男がいる。
何もねだらず、求めず、ベッドの中ですら甘い言葉を吐いたりしない。
どれだけ抱いて濃い時間を共有しても、欲望を吐き出してしまえば、練はまた腕をすり抜けていく。
口には出さずとも、彼が自分を愛していることは分かっているのに、霞のように手に触れられない、実感がない。
けして自分のものになり得ない存在は、どこまでいっても誠一の手には捕らえられないままだ。
冷たい風が心地いい夜を歩き、疲れた頭で考えることと言えば練のことばかり。
マンションの前で立ち止まると、誠一は階下から部屋を見上げる。
暗闇の中、白く光を漏らす窓に練の存在を確かめて、煌々と照らされたエントランスをくぐった。
「冷めるから」
「……だから何だ」
「冷めるから、早く食べて」
ジャケットをソファーへと放り、ネクタイを緩めている誠一に、練は強く言った。
「先に食べてってば」
ぐっと、練の腰に回した手は、その腕の強い力で剥がされる。
他人に負けない力は、確かに誠一が望んだものだ。
「言うようになったな、練」
冷ややかな瞳で見つめても、練は怯むということがない。今も、真っ直ぐに誠一を見据え、その目に迷いはなかった。
ぞくりと、背筋を走る快感にも似た高揚感。
その衝動に突き動かされるままに、練の顔を間近にして、片手でその頬を両側から掴む。力を加えれば整ったパーツがぐにゃりと歪んでいくが、練は悲鳴のひとつも上げはしない。
痛いと声を上げたなら、さぞかし可愛いだろうに。素直に泣いたなら、赤くなった頬をさすり、優しい口付けを与えてやるのに。
途端につまらなくなる誠一は、頬を挟んで上を向かせた練の口唇に咬みついて、練の身体から手を離した。
「この前買ったワイン、開けとけ」
「うん」
食卓に座り、湯気をたてたペンネ・アラビアータにフォークをつける。
バジルの香りをふわりと漂わせるトマトソースも、練の手作りなのだろう。そこらのレストランで出されるパスタよりも、ずっと濃厚なトマトの味がする。
「順調みたいじゃないか。お前の会社」
「そうだね。今のところは、問題ない」
向かいに座る練の前には、ワインを満たすグラスがひとつ置かれただけで、サラダもスープの皿もない。
一緒に食えと言ったのならともかく、同じ食事を同じ時間に摂る、ということは滅多になかった。今も練は、テーブルに両肘をついて顎を支えた状態で、誠一が食事をする様子をただ眺めている。
「くれぐれも会計部には釘刺しとけ。お前が監視するんだ」
「分かってるよ」
「目を付けられてからじゃ遅い」
「そんなヘマ、しない」
さも当たり前のことだと言わんばかりの練に、誠一は鼻を鳴らす。
出会ったときから、何か、大切なネジが一本抜けてしまったかのような、神経の図太い男だった。そのくせ、時にひどく弱々しくもある。
アンバランスで、常に危うく、しかしまた、思うほど弱くはない。
それは、計算されたものではない不均衡だからこそ、誠一を翻弄していくのだ。
「そういえば、チーズも買って来たんだけど、食べる?」
「もう十分だ」
「じゃあ、明日の朝にまわすよ」
何気ない会話をしながら、練の瞳は、じっとこちらを見ていた。
その視線に、じりじりと胸が焼ける。下卑た感情が沸き上がる。
こんな気分に駆られた日は、とことんまで練を味わい尽くさなければ衝動が鎮まらなかった。
芳香なソースとペンネを噛み下しながら、劣情に狂った想像が誠一の身体を巡る。
――今夜はどちらにしよう?
抵抗する腕を押さえつけ、きつく、激しい快楽を与えるか。じわじわと、溶け出す快感の恐怖に泣かせてやろうか。
どちらでもいい。練が我をなくすまで乱れるのならば、どんな方法だって構わなかった。
いっそ、両方を与えてやったならどうだろう。ベッドの上で組み敷かれた練は、素直になって自分を求めるだろうか。
情動は限りがなく、身体のうちに火を点す。
ワインを口にしたせいか、くすぶりだした火種は、胃のあたりから全身に高い熱を広げていった。
「来い」
フォークを食べ終わったパスタ皿に置き、たった一言。
そう告げるだけで、練は自ら従うように立ち上がり、誠一の後をついてくる。声に答えることはないが、態度だけならこれ以上ないほどに従順だ。
逆に、練が感情を露にして突っかかってくることは稀であった。
これは矛盾というのか、逆らわない練を見れば気分がよくもあり、反対にその従順さが気に入らないと思う瞬間もある。
誠一の命令に抵抗することが稀有だからこそ、激情に任せて抗う練を見れば、たまらなく心地がよかった。
死んだような目を向ける練など、見たくもないのだ。
しかし、激昂する練を目の前にすれば、誠一はいつしか力加減も忘れ、めちゃくちゃに痛めつけてしまう。
それは往々にして、彼が牙を剥くのは、決まって誠一が嫉妬に狂っている時だからなのだろう。
二人きりの時間に他人の存在をちらつかせる練だけは、どうにも我慢ならなかった。こちらを見つめているのに、その先に、誰かの姿を追っている。そんな練をみつければ、冷静ではいられなくなる自分を止められない。
目の前にいたならば、誰よりも愛してやる。だから、自分だけを愛せばいい。
これほど簡単なことはないだろう?
なのになぜ、練という男は今もまだ、手に入らないのか。
服を剥ぎ、素肌を責め、泣かせ、喘がせ、練をいたぶるシーツの上。
「あんたのためだ。……全部」
快楽に泣く練が放った熱をおびた一言に、誠一の動きがひととき止まった。
ならばどうして、こんなに抱きしめていてもなお、お前の存在を疑わなければならないんだ?――心の中で苦々しく吐き捨てる。
ただひとつ、自分のものにならないことがある。
過去への執着。麻生龍太郎という名の男への、変わることない練の想い。
手が届かない、遥か前の記憶には敵うわけもなく、無き亡霊に胸を掻き回されては、前へ進めないもどかしさに襲われる。
早く殺してしまえばいいと、強く誠一は願う。
しかし、殺してしまえばあの憎き男は練の永遠になってしまうのだ。
「もう一度だ、言ってみろ。お前は誰のものだ」
「ひゃ、あぁあっ……! あ、……せ、誠一の……っ、誠一……っ」
もはや正気ではない練が、髪を振り乱して誠一の名を叫ぶ。虚しいだけなのに、問いかけずにはいられない。
練を抱く誠一の激しさには、紛うことない狂気が含まれていた。