夏野様からの Treasure  



 


「田んぼのあぜ道を歩くのは、考えごとすんのに都合よくてさ」
 麻生が構えた探偵事務所のくすんだ天井を虚ろに見ながら、練がぽつりと声にした。
「ずっと向こうには、なにがあるんだろうって思いながらよく歩いたな」
 故郷の朽木のことだろうか。麻生は黙って横顔を眺めた。
「ゆるく蛇行した細い道でさ、舗装なんかされてないからペンペン草とか生えてんだ。道なりにまっすぐ進んでくと、小川が横を流れたりしてる」
 小川といっても、本当にそれはわずかに水が流れるばかりで、夏には枯れてしまうのではないかと思われるようなものだったと言う。
「水音がすごく心地よくてさ。ぼーっとしたまま歩いてたら、いきなり飛び出したアオガエルにびっくりさせられたこととかあったな」
 懐かしさを滲ませる表情に、牧歌的だな、と麻生は思った。あぜ道を辿った視線の先には、山が見えたりするのだろうか。
 麻生自身は下町の生まれだ。生家の近くには荒川と隅田川が流れているが、小川のイメージにはほど遠い。
 微かな川のせせらぎというものを頭に描いてみるのだが、遠足で出かけた高尾山の、岩肌を伝って流れ落ちる水の音しか思い出せなかった。

「その日も朝からぼんやりしててさ」
 練は構わず、話を進めた。
「まわりが見えてなかったんだな。ぬかるんでるって知らなくて、俺は足を滑らせた。そこから急斜面になっててさ。
あっという間に転がり落ちて、気付いたら沼にはまってた」
「前日に雨でも降ったのか。よく土砂が崩れたりするだろう」
「雨は降ってなかったな…天気はずっとよかったよ。あれは夏のことだったから」
「斜面を転がり落ちたって、それじゃ怪我もしただろう」
「そういうときって気づかないもんだよね、なにがなんだか分らないっての? でも岩や枝に当たってたらしくて、あちこち傷になってたよ。
それって、見てから痛くなるよね」
 振り向いた練がケラケラと笑う。無邪気さに麻生も顔をゆるませた。

 練がこうして昔話を寝しなにするのは稀なことだ。できるなら楽しい日常だけで練のまわりを覆ってやりたい。
 そのための一歩になりはしないかと、麻生はそっと息をひそめて話のつづきを微笑みで待った。

「俺がはまった沼ってのが、コールタールみたいなやつでさ。慌てて岸に手をのばしたけど、動くと沈んじゃうんだよね」
「深かったのか」
「うん、深かった。底を蹴ろうと足を伸ばしたら、ますます身体が沈んじゃった。足はできるだけ左右に開いて、抵抗面積を増やすべきだよね」
「普通、そこまでは気付けんだろう」
「それでもちょっとは考えたんだよ。結局、どれくらいジタバタしたかな…どんどん日が暮れて暗くなっちゃうし、近くに誰もいなくてさ。もういっか、これで終わりにしようって、そんなふうに思いはじめた」
「ずいぶん、諦めが早いんだな」
「やるだけやって、疲れちゃったんだよ。どんだけ頑張っても岸に届かないって、そういう気持ち、想像したら?」
 麻生は破顔した。尖らせた練の唇が、子供のようで愛しかった。
「だけど、おまえはこうして生きてる。無事に岸まで辿り着いたんだろ」

「俺を引き上げてくれた人がいた」
 練は真顔で天井を見上げた。
「こんなところでなにしてるんだ、って向こう岸から助けてくれた。一人で歩くのは危ないから、一緒に行こうって言ってくれた。助けられたとき、もう空は明るくなってたけど、向こう岸から先の方には薄暗い道が続いてた」

 淡々とした声だった。聞きながら、麻生は眉をひそめた。これは朽木の話じゃない。練が麻生に語っているのは、昔話ではなかったのだ。

「そういうことで」
 ぴしゃりと空気を断ち切るように、麻生に向いて練が告げる。
「のんびりあぜ道を歩いてたつもりが、よく見たら俺は鉄のレールを走る列車になってたってわけ」

「韮崎の敷いたレールなんて、無視してしまえばいいだろう!」
 思った以上に大きな声で、練に向かって怒鳴っていた。
「このままじゃ本当に春日組から逃れられなくなるんだぞ!」
 何度もくり返してきた言葉だ。口にするたび、麻生はありたけの思いをこめた。練には通じているはずだった。けれども、麻生に向けられた視線は揺らぐ気配を少しも見せない。

「俺が試さなかったと思う? 脇に曲がるレールがなくても、右折してみたことぐらいあるさ。それでどうなったか、あんた知ってる?」
 韮崎から逃げだした頃のことを言っているのだと麻生は気づいた。だから、敢えて答えなかった。
「脱線すると大怪我をする。実際、酷い目に遭ったんだぜ、俺。誠一にボコボコに殴られてさ。死んでもいいやって思ってたのに、病院にぶちこまれて、まだ生きてんの」
「そんな投げやりな言い方はよせ」
「なんでさ。結構、笑えるっしょ」
 麻生は深く息を吐いた。練が滑ったぬかるみは、麻生の創り出したものだ。あるべきはずのものではなかった。ぬかるみという冤罪が、練をここまで変えたのだ。
 肺の奥底に沈んだ澱を、かき混ぜられた心持ちだ。黒くて重い汚れた酸素を、ぜんぶ吐き出してしまいたかった。

「曲がれないならバックしろよ……」
 麻生は両目をそっと閉じた。練の顔を見られなかった。
「減速して、ブレーキを踏んで。後ろ向きで戻って来い」
 どんなふうに言えばいいのだろう。思いを表すための言葉は、曖昧で、常にもどかしい。

「バックなんか出来るわけないっしょ、時間は後戻りしないんだから」
 ひどく落胆させられた気分で薄く開いた視界の中に、穏やかに微笑む練がいた。
 どうして、これほどたおやかに笑うことができるのだろう。麻生の胸は切なく軋む。
「前に進むしかないじゃんか。それにいつの間にか、すごい数の乗客が列車ん中にいたんだよね。一緒くたにして巻き込むのは、やっぱ人として出来ないっしょ」
 それは組員のことを指すのか。春日組の若頭補佐だった韮崎が練に残した遺産。
「ろくな乗客じゃないだろうが! 多少傾いで転んだところで、奴らならうまく逃げるだろ。おまえが気にすることじゃない。練、韮崎はもう、いないんだ。縛られるのは止めにしないか」
 練はしばらく口を噤んで、諦めたように俯いた。
「……ホント、簡単にあんたは言うよね。なんかそれ、勘違いしてんじゃないの。俺がいる沼の向こう側は、そんなに甘い世界じゃないよ」
「それは俺だって理解してるさ。だがな、おまえは組員じゃない。今ならまだ間に合うんだ。絶対に間に合う、俺が助ける。脱線列車の乗客もろとも、俺が受けとめておまえを守るよ。だからおまえは??、」
「できないよ」
 突き放すように練は言った。
「脱線できない。だって今、俺が走ってるのは、渓谷に掛けられた長い鉄橋の上だもん」

 絶望の谷を渡る列車。麻生の脳裏に描かれたのは、哀愁を帯びたそんな絵だった。
 レールを逸れれば、練の列車は深い谷の底に落ちる。前進するしか道はないのか。向こう側へ渡ってしまえば、麻生が練にしてやれることはきっと無くなってしまうだろう。
 練は確かに、麻生の横にいる。その体温さえ感じ取れる。
 けれど麻生に微笑む今も、少しずつ手の届かなくなる場所へまっすぐ練は走っている。



 * * *



「朝っぱらから呼び出しておいて、結局、ただのノロケ話か」
 そんなんじゃない、と言いよどむ麻生に、及川は強く舌を打つ。
「どれほど山内を心配してんだか聞かされる身にもなってみろよ。今さらおまえらにヤキモチ妬くとでも思ってるのか、阿呆らしい。おい、これはおまえの奢りだからな」
 そう言って及川は、目の前のコーヒーを勢いよく飲み干して空にした。
 焦げ茶と白で統一された小さなアメリカン・ダイニングの一角に、麻生は及川と座っていた。
 窓際のボーズ社製スピーカーから、懐かしいポップスが流れている。「ロング・トレイン・ランニング」、ドゥービー・ブラザーズのヒット曲だ。歌詞にでてくる列車の行く先は、果たしてどこだと歌われていたか。
「すまん、純。このとおりだ」
 麻生は及川に姿勢を正すと、膝に手をついて頭を垂れた。
「谷の向こう側が消えなければ、あいつは自由になれないんだ。こちら側に戻りたくても、戻ることができないんだ。あいつは本当は、戻りたいんだ…ごく普通の、庶民の世界に」
 だから頼む、とテーブルの端に額を擦るほど、麻生は折れ曲がる。
「あいつごと叩いて構わない、あとは俺がなんとかする。だから春日組を潰してくれ。捜四のあんたしか、頼れないんだ」

 麻生は頭を下げつづけた。刑事を辞めて一年近くなる。マル暴の担当ではなかったが、桜田門から離れた以上、じかに麻生が春日組へ効果的な手を打つのは難しい。及川にすがるしかないと思った。
 つむじのあたりに及川の視線が注がれるのをじわりと感じた。及川は黙って見下ろしている。長く、息苦しい時間だった。

「山内のことがあろうが無かろうが」
 やがて及川は溜め息まじりで囁くように麻生に告げた。
「俺はいつだってあのクズどもを潰してやりたいと思ってるさ、おまえに言われるまでもない。俺だって相当、焦れてるんだ。あいつらは狡賢くて、法の手の届かない遣り方を充分すぎるほど心得てやがる。ようやく尻尾をつかんだと思っても、トカゲみたいに逃げちまうのさ。それはおまえも知ってるはずだ」
 ああ、と頭を垂れたまま、麻生は低く呻いて答える。及川が「もういい」と言うまでは、顔を上げるわけにはいかない。及川は気にしていないようだが。
「すぐにでもあいつらを叩きたいさ、龍。街をきれいに一掃したい。ドンパチやシャブのない都会ってのを、この現実に残したい。だがな、いいか、よく聞いておけ。それはおまえや山内のためにやろうとしてるわけじゃない。俺が守るのは善良な市民だ。そして俺は、俺のためにやる。俺に頼むのは、おかど違いだぜ」

 てめえのことは、てめえでやりな。及川の気配がその声とともに、フイと麻生の前から消えた。
 彼の言うことはもっともだ。麻生にも分かりきったことだった。それでもじっとしていられなかった。できるだけのことをしたかった。

『どんだけ頑張っても岸に届かないって、そういう気持ち、想像したら?』
 練の言葉が脳裏をよぎる。もがけばもがくほど沈んでしまう、と笑いながら言っていた。

 つらいな、と小さく呟いてみる。その途端、堰を切ったように胸の奥がジンと痛んだ。

「ありがとうございました」と店員の声を追うようにして、アイアンのドアベルが鳴らされる。
 麻生はゆっくり躰を起こし、窓の外に及川を探した。ベージュのトレンチコート姿は、ちょうど信号が青のところを足早に向こうへ渡っていった。
 おまえの奢りだ、と言っていたのに、テーブルの上にあったはずの支払い伝票が消えていた。及川が払ってしまったようだ。
 冷たく麻生をあしらうくせに、そういうところはずっと昔から変わってないな、と肩を落とした。及川に慰められてしまうと自分の非力さが浮き彫りになるようで、苦い笑みがこぼれてしまう。
 練でさえ、あれほど強いというのに。
 麻生はテーブルに残されていた自分のコーヒーを飲み干した。すっかり冷えてしまったそれは、香りをとうに淡くさせていて、焦げたような苦い味だけが口の中に広がった。



Fine.

                                

    2010.7.6

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