傘がない



壮絶なランチの混雑が終わり、ほっと一息ついて窓の外を見る。
鉛色の雲が流れ、空が段々暗くなっていく。
ここ数日、天気の良い日が続いていたが、まだ梅雨明けした訳ではない。
出掛ける時に見た天気予報の午後からの降水確率は100%だった。
傘を持ってきて、正解だったなと思う。

帰ったお客さんの食器を下げていたら、ザーザーと物凄い音をたてて、雨が降り始めた。
店の前の歩道は、あっという間に大粒の雨が色を変えていった。
オレは急いで表に出て、ランチメニューが貼ってあるイーゼルを雨に濡れないように壁側に寄せた。


ダッ、ダッ、ダッと、足音が聞こえた。

「まだランチ、残ってる?」

―――― あの人の声だ!

振り返ると、頭から全身ずぶ濡れになって駆け込んで来たあの人が立っていた。
数日前、もう忘れようと思っていたあの人が、
微笑んで。
一瞬、心臓がどくんとなって声が出せなくなった。

「は、はい、まだ大丈夫ですよ!」

やっとの思いでそう告げて、店のドアを開き、先に入ってもらった。
大きな背中もびしょ濡れで、襟足の髪から、雨の雫がぽとぽとと垂れていた。

オレは、すぐに、水のグラスと乾いたタオルを持って、あの人の席へ向った。
あの人は、濡れた背広を隣のイスに掛けていた。

「どうぞ、お使いください」
「いいよ。すぐに乾くから」
「でも・・・髪が・・・濡れてます」
「そう、悪いね、ありがとう。
あ、Aランチ、ライス大盛りで、ドリンクはコーヒーで、お願いね」
「はい」

あの人は、ちょっとバツが悪そうに笑い、タオルを受け取った。
髪をがしがしと拭いてから、棚に置いてあった新聞を取り読み始めた。
そういえば、今日は指輪をしていなかったな。
この間、やっと、注文以外のことで、初めて口がきけたのに、その日の帰りに指輪をしているのを見てしまい、
この2年間、胸の底に沈めていた淡い思いに自分で終止符を打ったのだ。
名前すら知ることも出来ずに・・・

職場を出て、急に雨が降り出したから、思わずこの店に入ってしまったのだろうか。
雨が降り出さなかったら、他の店に行ってたのかもしれない。

明日でこの店を辞める。
もう会えないと思っていたのに、もう一度、あの人に会わせてくれたこの雨に感謝したいと思った。
そして、本当に今日が最後の見納めになるかと思うと、マスターに気づかれないように、手はちゃんと動かしながら、
目は、しっかりとあの人を追っていた。

ランチプレートを運ぶと、新聞を置き、もの凄いスピードで食べ始めた。
食べている間は、新聞を読まない。
部下と来る時でも、30分以上、この店にいたことはない。
本当に刑事なのだろうか・・・
テレビドラマがふと頭に浮かぶ。
刑事はあんなスピードで食事をしなくてはならないのだろうか。

そろそろ食べ終えそうだなとタイミングを見はからって、コーヒーを出した。
食事を終えると、また、新聞を読み始めた。
食べるのはあんなに早いのに、コーヒーはゆっくりと味わうように飲んでいる。
コーヒー、好きなのかな。

コーヒーを飲み終えると、腕時計を見て、そして、窓の外を見て、ふぅっと大きな溜息をついた。
降り始めたばかりの雨は、もちろんまだ止むことはない。
むしろ、さっきより、酷くなっている。
オレは、そうだ!と思いつき、急いで荷物の置いてある裏の部屋に入り、自分の傘を持って来た。
あの人はタオルを丁寧に畳んでテーブルの上に置き、新聞を棚に戻し、背広を着て、レジへと向う。
オレも、さっと、レジの前に立った。

「ごちそうさま。タオルありがとう」
と言って、お財布から千円札を出して、レジ前のプレートに置く。
「ありがとうございました」
と言って、おつりを渡す。

「あの・・・傘、どうぞ、お持ちください」
そう言って、オレが傘を差し出すと、驚いたような顔で目を見開いた。
「すぐそこなんですよ。走って行けば、大丈夫だから」
「でも・・・又、濡れちゃいます」
「君の傘じゃないの?」
「に、二本ありますので」
咄嗟に嘘をつく。
店には忘れ物の傘が数本あるから、それを借りればいい。
受け取ろうとしない掌に、無理やり傘を押し付けると、
一瞬、小指が触れた。
ドキっとして、さっと一歩後ろに下がった。

「じゃぁ、遠慮なくお借りします。今度来る時に必ず返すからね」
「いいです、こんな傘、わざわざお持ちにならなくても・・・」

白いビニール傘なんて、傘立てに突っ込まれた瞬間に、もう誰のものだかわからなくなるのだ。
この店から、あの人が濡れずに戻れればそれでいい。

明日で辞めるのだから、今度来る時と言っても、その時はもう自分はここにはいないだろうし。

それとも・・・
「明日で辞める」と言ったら、明日返しに来てくれるのだろうか?
ふと、そんな思いが頭に過ぎったが。
自分の都合なんて言ってどうするんだ。
オレがこの店を辞めることなんて、あの人には何の関係もないことなのに。
最後に、こうして話せただけも、もう充分だった。

オレは、もう一度、
「ありがとうございました」
と言って、頭を深く下げた。


「明日、返しに来るから、ね」

あの人は優しく微笑んで、オレの傘をさし、店を出て行った。

遠くなるあの人の背中を瞼に焼き付けた。





                                

2009.4.14

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