「斎藤〜!!!」
高安が帰った後すぐ、若に大声で呼ばれた。
部屋に入ると、灰皿が俺に向かって投げつけられた。
キャッチ出来ず、壁にぶつかって割れてしまった。
一つ数万円はする灰皿、今月、二つ目だ。
「車出せ」
若がキーを投げた。
今度は、上手く受け取ることが出来た。
若の車のキーだった。
若が仕事で乗る時は、もちろん、俺が社用車のベンツを運転する。
若が自分で車を運転するのは、プライベートの時だけだ。
俺は、若の車を運転したことはない。
「気分が悪い、最悪だ。おまえが運転しろ」
ソファーに腰掛て、テーブルをガンガン蹴っている。
若を怒らせるどんな報告があったのだろうか。
もちろん、それを聞くことは決して出来ないが。
どこへ、行くのだろうか?
酒でも飲みに行くのか・・・?
若が、すっと立ち上がった。
何も言わず、ドアから出て行った。
俺もすぐに後を追った。
ガレージに行き、若のカウンタックのドアを開ける。
若が、後ろのシートに座る。
エンジンをかけ、若の言葉を待つ。
何も言ってくれない。
重い沈黙の時間が過ぎて行く。
行く場所を決め兼ねているのだろうか。
しばらくして、やっと、若の口が開いた。
「どこでもいいから走れ」
「は、はい」
ヤバイ・・・
このパターンは・・・
まずは、この車を無傷で運転することだけに、集中しようと思った。
運転に慣れたら、どこに行くか考えよう。
息を大きく吐いてから、アクセルをぐんと踏み出した。
若は、気分転換によくドライブに行く。
まぁ、大体は、ストレス解消という感じで、面白くないことが起こった後に出ることがほとんどだ。
若は、いつも、何か一言、短い言葉を呟く。
それは、はっきりとした行き先ではなく、その言葉から、俺が若の本当の行き先を当てなければならない。
そう、はっきり言って、これは、ゲームのようなものなのだ。
そして、俺はいつも、若の行き先を当てることが出来ないでいた。
「下」
と、言われて、下町の、特に浅草あたりを回った時は、その後、帰ってから酷い目にあった。
俺としては、気をきかせたつもりが、まったく逆効果だった。
「上」
と、言われて、山の手か?と思い、世田谷あたりを走ったら、若が学生の頃住んでいた町の近くを通ったと言われ、また、殴られた。
正解は、東京タワー登ってみたかったのだと。
「ほたる」
と、言われた時も慌てた。
今時、ほたるが見られるところなんて、山の奥深く、綺麗な水があるところまで行かなきゃならないだろうと思って、
とりあえず、中央道に乗ろうとしたら、
「海ほたる」だと言われ、まったく反対方向だった。また、殴られた。
「向こう」
と、言われたら、お台場のこと。
海の向こう側から、こっち側を見るという意味だった。
しかし、「どこでもいい」
は、今までに一度もなかった。
怖い・・・
どうしよう・・・
不機嫌な若をこれ以上、怒らせることがあったら、俺の命はもうないかも。
クーラーが入っているのに、汗がだらだらと、背中を伝っていく。
もの凄い緊張で、ハンドルを握る掌にも汗をかいている。
一般道を走るのは、怖いので、とりあえず、首都高に乗った。
若は、鼻歌を歌いながら、外の景色を眺めている。
バックミラーに写った寂しそうな顔を見ていたら、胸が張り裂けそうになる。
若がああいう顔をする時は、決まって・・・
あいつのことだ。
そうだ、高安の話は、きっと、あの会社のことだったんだ。
断られたのだろう・・・
社長就任を・・・
そうだと分かった時、ベイブリッジを通り過ぎた。
いつもなら、ここで、戻るところだが、俺は、ふと、明日の若のスケジュールを頭の中で復唱した。
午後3時に、商談が一件、その後は、そのまま接待で会食。
明日、午前中は、フリーなのだ。
若は、まだ、何も言ってこない。
俺は、思い切って勝負に出ることにした。
そのまま横横に入った。
一瞬、若の目が、見開いたようだったが、まだ、何も言わない。
今日の答えは・・・
間違っていないのだろうか・・・
若には、もう、俺が行こうとしているところが、分かっているはずだ。
横横を降りて、しばらく行くと海が見えてきた。
そして、江ノ島が見えてきた。
たぶん・・・
大丈夫・・・
な、はず。
もしも、違っていたら、もっと早くに、怒鳴られている。
若が執筆活動をしていたころの別荘だ。
駐車場に車を止め、ドアを開けた。
若は、動かない。
ち・・・違ったのか・・・
心臓がドキドキしてきた。
汗が頬を伝う。
思わず目を瞑り、いつ殴られてもいいように、ぐっと歯を食いしばる。
ごそっと音がして、若が車を降りる気配を感じた。
殴られるのか?
拳は飛んでこない・・・
あ・・・
大丈夫そう・・・?
恐る恐る目を開くと・・・
「正〜解、おまえ、当てたの初めてだな」
と、一言言って、若は玄関に向かって歩き出した。
車のドアを閉め、急いで若の後を追った。
玄関の前で、若が振り返った。
俺も慌てて、若に背を向ける。
この別荘の玄関は暗証番号を押す電子ロック式になっている。
もちろん、若はその番号を誰にも教えない。
番号を見ないように、背を向けたのに、突然、若は数字を言い始めた。
「1 9 8 9 0 2 1 4 ♯」
「えっ?」
気が動転して、思わず、大声を出してしまった。
バコンと思いっきり、頭を殴られる。
「おまえが開けろ」
「は、はい、若」
ボタンを押す指が震えた。
「1 9 8 9 ・・・」
後半が思い出せなかった。
「え、あ、すみません・・・もう一度・・・」
「ばかやろう、1度で覚えろ!
1 9 8 9 0 2 1 4 ♯だ!」
最初から押しなおしたら、エラーになってしまい、ピピーっと電子音が鳴ってしまった。
「へたくそ」
蹴りが一発入る。
でも、軽かったので、あまり痛くなかった。
暗証番号を教えてもらったという事実に、とてつもなく緊張してきた。
また、指先が震える。
でも、今度こそは間違えないように、慎重に押していく。
「1 9 8 9 0 2 1 4 ♯」
ガチャン、
と、音がして、ロックが解除された。
ドアを開けて、すぐに灯りをつけた。
若がゆっくりと俺の方に歩み寄って来た。
そして、恥ずかしそうに俯き、俺の背広の裾をぐいっと引っ張った。
「若・・・」
それは、若の秘密の合図・・・
若は、プライドが高いから、
決して、抱いてくれとは言わない。
時折、どうしようもなく寂しくなる時に、
俺の服の裾を握るのだ。
「正解のご褒美、くれてやるぜ」
若の腕が俺の首に巻き付き、
柔らかい舌が、口の中にするりと入り込んできた。
「ん・・・わ、若・・・」
「練、だろ?」
若が、パチリとウインクをして、優しく微笑んだ。
もう、何にも考えられなくなった。