「名前は?」
「練」
そう言って、目を閉じた。
怒っているのだろうから、
きっとひどいことをされるのではないかと覚悟はしていたのに、
とても優しく抱いてくれた。
店に来るような変態共とは、全然違った。
特に、あれしろこれしろとの命令もなく、
あの店に入ってから、こんな穏やかなセックスは、記憶になかった。
気持ちがよかった・・・
すごく。
たぶん、
もしかしたら・・・
うん、きっと、そうだ。
この人には、思っている人がいて、
でも、その人とは、こういうことができないんだろう・・・
誰かを思って、俺を抱いていた・・・
そう、はっきりと確信した。
果てた後も、ずっと俺の頭を撫でてくれた。
なんだか、辛くなってきて、まともに顔も見れなかった。
しばらくすると、何も言わずベッドから出て、シャワーを浴びに行ってしまった。
バスルームから出ると、
「おまえも浴びて来い」
と言って、手をぐいっと引っ張って起こしてくれた。
俺がバスルームから出たら、その男はソファーに座って、
なんと、文庫本を読んでいた。
驚いた。
こんなところで、本を読んでいる人なんて始めて見た。
いったい、何を読んでいるんだろう・・・
ちょっと気になって、正面に回ってその本のタイトルを見た。
タイトルは知らなかったが、作家の名前は見覚えがあった。
自分も好きな時代小説作家で、確かあのおんぼろアパートの本棚にも置いてあったはずだ。
俺の方をちらりと見ると、ソファをパンパンと叩いて、
何も言わずに視線だけで、「ここに座れ」と促した。
「ビール飲むか?」
俺が頷くと、新しいコップにビールを注いでくれた。
「少し待っててくれ」
そう言って、また小説を読み始めた。
残りのページが少ない。
たぶん、最後まで読みきってしまいたいのだろう、と思った。
変わっている奴だな。
あのくらいだったら、たぶん、10分もかからない。
俺はビールを飲みながら、ちらっと小説を覗き込んだ。
話かけない方がいいのだろう。こういう時は。
突然、男が肩に手を回し、耳元で囁いた。
「もう、ちょっとな」
くすぐったくて、
そして、こんなところで、本を読んでいる奴がおかしくって、
吹き出しそうになるのを必死にこらえ、下を向いたまま、頷いた。
あと3ページ・・・
あと2ページ・・・
あと1ページ・・・
読む速度がとても早い。
あっという間に読み終えて、
バタンと本を閉じた。
「雅野筏のいつの本ですか?」
「おまえ、知ってるのか?」
その男は、びっくりして、俺の顔を覗き込んだ。
こんな仕事をしている人間がこの作家の本なんて読むのか?と不思議そうな目だ。
「彼の本は、ほとんど読んだと思ったのに、知らなかったので」
「へえ〜好きなんだ?これ、今日出たばっかの新刊だぜ」
「え!新刊出たんですか?久しぶりじゃないですか」
「そうだな、2年近くは出てなかったかもな。
おまえは何が好き?」
「俺は、“紅の縄”。それから、“黒龍の野望”も!」
「ああ、俺も黒龍が一番かもな。あれはいいよな」
その男は肩に手を回したまま、俺の髪の先をくるくると弄びながら、
あの本のここが好きだとか、映画化されたものは観たのかとか、話に夢中になっていた。
俺も楽しかった。
本の話なんて、本当に久しぶりにしたような気がした。
「これ、読む?」
「いいんですか?」
「ああ、とっても、面白かったぞ。おまえにやるよ」
「ありがとうございます」
金持ちだと言ったオーナーの言葉を思い出した。
本一冊くらいどうってことはないのだろう。
ここは、素直にもらっておいた方がいい。
「ん・・・そうだな、それがいい」
「え?」
「読んだ感想を聞きたい。
おまえをもう一度指名するからな」
「でも・・・俺・・・」
自分のいるパープルと指名の入ったブラックナイトとは店が違うから来れないと言ったところであまり意味はないだろう。
店同士の関係も自分にはよくわからないが、実際に、こうして来れたのだから。
ま、なるようにしかならないか・・・
「なんだよ。俺が嫌なのか?」
その人は、俺の耳朶をぎゅっと引っ張った。
「わかりました。お願いします」
「あ、それから、敬語やめろ。タメ口の方が気楽でいい。
純って呼んでくれ」
ニヤリと笑って、また頭をくしゃくしゃと撫でてくれた。
また、会いたい
と、思った。
また、抱かれたい、
と、思った。
たとえ、誰かの身代わりでも。
「純・・・また、俺を指名して」
俺は、自分から純の唇に吸い付いた。