Smile  1 



目が覚めたら、もう午後2時近かった。
いくら休みとは言え寝過ぎだろ。
腹が減って冷蔵庫を開けたら、缶ビール以外何も入っていなかった。
非番前には何か買っておかないと、悲惨な目にあうのは毎度のことなのに。
昨日は手こずっていたヤマが一つ片付き、打ち上げで散々飲んだから、どうやって帰って来たのかも、
正直、ほとんど覚えていない。
あんな状態では、コンビニに寄って買い物をするのは不可能だったのだろう。

とりあえず、缶ビールを開け、二口ほど流し込む。
空きっ腹にきゅぅっと沁みる。
キッチンの棚を開けてみても、食べられそうなものは何もなかった。

やっぱり、外で食おう。
ジャケットを羽織り、マンションを出た。

この辺りの裏道は、昔ながらの花町の風情が残っている。
洒落た店が多く、昼間歩くと雰囲気が夜とはまた違う。
あいつが来なくなってからは、この町で飲むこともほとんどなくなってしまった。
自分一人、只寝に帰って来るだけなので、新しい店を探す必要もない。
定食屋に蕎麦屋に居酒屋、それぞれいくつか知っている店があれば十分だった。

行きつけの蕎麦屋はランチタイムが終わると、夜の営業まで店が一旦閉まってしまうのだ。
時計を気にしながら、大急ぎで向かったが間に合わなかった。
仕方なく、神楽坂の方に向かいぷらぷらと歩いてみた。
ふと、「ギャラリー&喫茶」と書かれたイーゼルが目に入った。
近寄って見てみると、下の方にセットメニューがいくつか書かれていた。
特に何時までとは書いてなかったから、まだ食えるのだろうか?

入り口の扉から、店の中をちょっと覗いてみた。
確かに、大な額縁がいくつか飾られている。
しかし、客は誰もいなかった。
他の店にするか、
と、歩き出そうをしたら、突然扉が開いて、中から若い男が出てきた。

「どうぞ〜!」
と笑って、俺を中に招き入れようとした。

「少しだけでもいいので、ご覧になっていかれませんか?」

一瞬、最近問題になっている、絵画を有り得ないほどの高値で売りつける悪徳商法ではないのかと思ったが。
でも、確かあれは若い女性が、若い男性をターゲットにして狙うって聞いていたけどな。

そんな俺を見透かしたのか、その男は笑って、
「大丈夫ですよ!買ってなんて、言いませんので!」

爽やかな笑顔が眩しかった。
デカなんてやっていると、つい、この人間が嘘をついているのか、いないのかと、そんな目線で見てしまうものだが、
この男は、嘘はついていないだろう、
と直感的に思った。

「まだ、飯食える?」
「はい、パスタとかカレーならございますよ!」

食えるなら、この際なんでもいい。
俺は、この店に入ることにした。

中に入ると結構奥行きがあり、白い壁には何やらわけのわからない絵がいくつも飾られていた。
モダンアートとでも、いうのだろうか。

「先に、お食事のご注文してをしていただいた方がいいですよ。
お待ちになっていただいている間に、絵をご覧になれますので!」

ま、折角だから、見てやろう。
何も見ないで、只食うだけでは可愛そうだしな。

その男が渡してくれたメニューを見て、和風パスタとコーヒーのセットを注文した。

「俺、初めてなんです!こういうギャラリーで、自分の作品を展示するの。
なんか、凄い緊張しちゃって。
誰も見てくれなかったらどうしようって、昨日はほとんど眠れんかったんですよ」

絵のことなんか、さっぱりわからない俺はどういう言葉をかけてやればいいのかも、まったく見当もつかなかったのだが。

「さっき、美大時代の友人が何人か来てくれたんだけど、正直、一般のお客様は、あなたが始めてなんです。
無理矢理呼び込んでしまったようで、申し訳ありませんでした」

その男は、機関銃のように、一人でぺらぺらとしゃべって、ぺこりと頭を下げた。
そして、また、屈託のない少年のような顔で笑った。

「はああ・・・ちょっと、落ち着いてきたかも。
さっきまで、心臓が口から飛び出しそうだったんで!」
「すまない、俺は、あまり・・・その・・・絵には詳しくないんだ。
良かったら、君の絵を解説してくれる?」
「あ、はい、もちろんです。ありがとうございます!」

それから、その若い男は、簡単な紹介文が書かれたチラシを俺に渡し、
そして、1枚1枚、わかりやすい言葉で丁寧に説明をしてくれた。

「これ、何に見えますか?」
「何って、言われてもな・・・さっぱりわからんよ」
「そうですよね、これはですね・・・」

ユーモアのセンスも中々のもので、俺はよく笑わせられた。
切った張ったのハードな毎日を送っていたから、日常の生活の中で、こんなに心から笑ったのは久しぶりのような気がした。
丁度、半分くらいの絵を見たところで、パスタができあがったと声をかけられ、奥の喫茶コーナーの方に案内された。

「残りは、食った後でちゃんと見させてもらうからな」

あっさりとしたパスタの味も中々のもので、テーブルの上においてあったメニューをもう一度良く見ると、
この店は、有機野菜を使った料理が売りのようだった。
コーヒーも上手いし、何より込んでないのがいい。
まぁ、ランチタイムは、きっとこんなに空いてはいないのだろうけど。
ギャラリーの方は、1〜2週間単位で貸し出されているようだった。

コーヒーを飲み終え、支払いを済ませて、ギャラリーのコーナーへと戻った。
さっきの若い男は隅っこの椅子に座り、何か書類のようなものを見ていたが、俺の姿が目に入ったのか、
すぐに立ち上がり、俺の方に歩み寄って来た。

「ああ、びっくりしましたよ。まさか、もうこちらにいらしてるとは思ってなかったので。
すみませんでした。お客さん、食べるのお早いんですね〜」
「続きを頼む」
「はい、ありがとうございます!」

一瞬見ただけでは、いったい何の絵だか見当もつかないようなものばかりだったが、
当たり前のことだが、1枚、1枚にちゃんとしたテーマがあり、説明を聞くと、
ほう、そうなのか、そういう意味がこめられているのかと、つくづく感心させられた。

音楽は好きな方で、聴いたりはしているものの、美術には何の興味もない。
高校の選択も書道だったから、こんな風に絵の解説をしてもらったのは、それこそ、中学の授業以来じゃないのかと、おかしくなった。

若い男と目が合った。

どうやら、ふと、笑った瞬間を見られてしまったようだ。

「ああ、よかった。
ほっとしました。
少しでも、喜んでいただけて」
「ここは、いつまでやってるんだ?」
「はい、来週の金曜日までです!」

丁度、一週間後、また非番の日だ。

「そうか、なら、また来れるかもしれないな」
「本当ですか?是非、またお越しください!
わ〜、とっても、嬉しいな!」
「急な仕事が入らないかぎり、必ず来るよ。
ここ、飯も美味かったしな」
「ありがとうございます!お待ちしています!」

飛び上がらんばかりの満面の笑みを浮かべ、ぺこぺこと何度も頭を下げている。


たぶん、
このまま、
もう少し、
この心地よい空間にい続けたら、
俺はあの絵の中の1枚を買ってやろうと言い出していたと思う。

なぜか、不思議な力を持っていたのだ。

あの絵にも、
あの男にも。
あの瞳にも。
そして、あの笑顔にも。

すぅっと吸い込まれたような気がした。
俺の知らない穏やかな空間に。

俺は、自分に一週間の時間を与えたかったのだろう。

もしも、
来週の非番も、仕事が入らず、休めたら・・・

もしも、
このギャラリーに入って、
あの笑顔を見れたなら・・・

その時は、迷わず・・・

絵を買う自分を想像しては、思わず吹き出しそうになった。

「じゃあな」
と言って、店を出た。

その男は店の外まで出てきて、深々とお辞儀をして見送ってくれた。

俺は貰ったチラシを丁寧に折りたたみ、ジャケットの内ポケットにしまった。



                                

    2009.10.24

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